プロローグ
僕の学歴について書いてみます。福岡県立八幡高等学校を卒業して関西大学法学部法律学科卒業です。大学について51歳の今思うことは2つです。昼間の大学に行きましたけど夜間でも良かったというのがひとつめ。関西大学は行きたかった大学ではありましたが入れる大学であったのも事実ですので、もっと勉強して難易度の高い大学に行っておけば良かったと思うのがふたつめです。相反することを書いていますが、その意味では中途半端だったのかな。それと大学が全てではありません。自己実現の一つの手段だったり、自分を見つけるための時間稼ぎだったりします。僕は時間稼ぎでした。そして「学歴=人格」とは思っていませんので、それを踏まえて書いてみます。
大学受験動機
時間稼ぎでして「そんな動機で大学を受験するなんて!!!」と怒られるかもしれないですけど、書いてみます。
僕が大学を受験した動機は親の跡を継ぎたくなかったからです。我が家は代々散髪屋さん。先に7歳上の兄が大学に行き社会人になりました。僕は家の跡を継ぎたくなくて、親から出された条件が「大学に行くなら跡を継がなくていい。ただし一浪も許さん。現役で合格しなかったら跡を継げ」でした。これは、僕の人生で大きな一言です。なぜならこのあと「現状から逃げる最良の方法は今を頑張るしかない」を繰り返すことになるのです。ポジティブなのかネガティブなのか全く分かりませんが、大学に進学することで親の跡を継がずに、4年間で何をやりたいのか、何に向いているのかを探す時間を得たのでした。(もう、この先の話には価値がないかも)
大学で学んだこと
法学部は法曹界を目指さないのであればあまり勉強しなくてもいい学部ではありますが、僕の場合は結構ちゃんと勉強しました。特にきちんと勉強した記憶があるのは「労働法」「国際法:国際司法裁判所の役割」「商法」「民法」です。国際法は範囲が広いので注釈を付けました。この4つは社会人になっても役に立っています。高校生から英語が得意でしたので、これも大学時代に伸ばして証券マンの頃は役立ってくれました。もう20年も喋ってないので、もう通じませんが。
勉強以外で学んだことと「夜間でも良かった」と思ったことはリンクしています。ひとつめはアルバイトとはいえ働いて給料をもらうことの大変さ。ふたつめは人間関係構築の難しさ。みっつめは社会そのものです。学びの機会をもらったことについては親にとても感謝しています。人から盗まれることのない財産を得た思いは今でもあります。
社会そのものとは?
問題はみっつめです。僕がいう「社会そのもの」とは何か?
1.渡る世間は無関心な人の多さに驚く。そして振り向かせることはとてつもなく大変。
2.身近なところに犯罪者と犯罪者予備軍が潜んでいるので、気を抜かずに生きていかなきゃいけない。
3.立場が変わると発言が変わる人がいる。それは成熟の過程なのか、考えの浅はかさなのか考えることになりました。
4.差別を実感することがありました。それまで概念的に「差別してはいけない」ということは感じていましたけど、「こういう理由で差別してはいけない」ということを学びました。
これらは…親元から大学に通っていたら分からなかったかも。親って超大きな盾、超大きな防波堤なんだと思う反面、世間知らずを生み出す素にもなっているように思います。
学歴で差がないこと
勉強として学んだことは研究職として残らないのであれば、どこの大学でも(程度の差はあれ)それほど変わるものではないと思います。勉強以外のことは大学というよりも、住んでいる地域にもよるだろうし時代にもよることでしょう。関東の大学に行けば感じないこともあるかもしれませんし、地元の大学にいけば全て感じなかったかもしれません。つまり、「大学」と「学んだことの質」はリンクしないのではないかと思います。念の為、理系についても考えてみました。例えば医学部ですが、東京大学と琉球大学で医師免許の合格率が変わることがあれば大変ですけど恐らくは変わらないと思います。日本医師会の会長の「なり易さ」は違うかもしれません。もうひとつ例を。僕の大学の先輩が工学部でレーザーの研究をしていました。日立製作所に入社して配属された部署はモーターの設計。日立製作所ですからモーターってのは源流とも言える部署ですが「レーザーという最先端の研究をしていた俺からすると花形ではない」と先輩は言ってました。これもリンクしていないことの証明につながっていると思います。
司法試験について大学別の合格者数というのも出ますけど、東京大学だから合格しやすいものでもありません。頭のいい人が試験にチャレンジして合格しているのです。東大卒が司法試験と国家公務員キャリア試験の合格者数が多いのは、地頭がいいということもありますが、試験の中身が近いということも理由の一つです。地頭の良さでいうと重要なことをあげておきます。東大受験者の100人に1人は受験勉強で苦労していません。東大入学者はだいたい3,000人強です。受験者数は9000人近い。東大受験で苦労した人は「入りたいという希望を持っていた人」も含めると10,000人はいることでしょう。そう考えると100人に1人でだいたい合ってるww
日立に入った先輩に関連して付け加えますが、僕の最初の上司が教えてくれたことは「与えられた局面でベストを尽くす」でした。某社の社長は「希望する部署に配置されることはありません。与えられた仕事を天職として全うしてください」と言ってます。今考えると、花形かどうかは本人の心持ち次第ということを分かってなかった。
学歴で差が出ること
だいたい今までに10,000人ぐらいと名刺交換をし協力して仕事をしてきました。さらに証券会社時代はリクルーターとして、証券会社を退職してからは面接担当として人と接していた体験での感想と捉えてください。
学歴とは卒業した時の超人気企業の入りやすさ??違うと思います。僕が思う学歴の差とは「我慢強さ(打ち込み力の強さ)の客観的指標」です。 社会人として働いていみると、かなり高い比率で「我慢強さ」が要求されます。難易度が高い大学を卒業見込みの学生は、この「我慢強さ」がある一定レベルにあることが客観的に予想可能です。学歴で最初に篩(ふるい)にかけて、その中で地頭の良さ、素直さ、熱心さ、好奇心旺盛さ、健康面で良い人財を獲得しようとします。体育会出身者が企業でもてはやされるのも、何かを我慢して(「打ち込んで」でもいい)いたからにほかなりません。そして、面接担当者は我慢強さと引き換えに得たものが何だったのかを知りたがるのは企業がそういう方向を向いて動いているからにほかなりません。繰り返しますが、全人格的なモノの見方をして判断しますから性格が悪ければ不合格ですけどね。
エピローグ
私が難易度の高い大学にチャレンジしておけばよかったというのは、もっと我慢強く何かに打ち込んだ人を見てみたかったということです。もちろん大学時代の友人はとても大切です。関西大学に入ってなかったら得られなかった宝物です。でも、それは別の大学で別の人達が大切な宝物として存在していたでしょう。 夜間でも良かったと思っているのは、学ぶことに差がなければ社会を知ることの量を多くしたほうが自分のためだったと感じているからです。ということで「学歴」について書いてみました。
「大学に入れるのは経済的に恵まれているから」というのは関係ないのですか?と訊かれたことがありますので、簡単に。
経済的に豊かな環境で育つことは人間形成に関して良い影響をもたらすとも言われていますが、経済的に豊かだから心が豊かに育つかというと、必ずしもリンクしません。そんなものは、今の日本であれば、はねのけることができます……そういう経済的ハンディキャップをはねのけてきた人をたくさん見てきました。優れいているか劣っているかと学歴がリンクしないというのはそこです。どう生きていくか、どの職業で生きていくかで相応しい道が自ずとできてきて、それは大学進学とは限りません。例えば米国金融の凄腕ディーラーは高校すら行ってなかったりしますし、高卒で特殊公務員という方はたくさんいて、そういう人が世界を動かしていたり(監視していたりw)するものです。
ここまで書いて思いましたけど、結局は学歴よりも人間性が大事だと思います。学歴で見方を変える人がいたとしたら、その「変える人」に問題があるのでしょうヾ(。>﹏<。)ノ゙✧*。
では、また次回!
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