富岡八幡宮の宮司職を巡って悲惨な事件が起きた
神社の宮司が弟から殺されるという異色の事件だが、神社というだけで金と利権を巡った姉弟げんかと見れば、あちらこちらにある話だ。これが本事件の本質で、「信仰なんて意味がない」という話をする人もいるけど、これは信仰の本質と人間の本質をごちゃまぜにした乱暴な意見だと思う。
この事件の報道を見た母はこう言った。仲良しはサイコー
「うちはお金がないから、あんたたち兄弟の仲が良くてよかった」と。
確かに兄弟仲はいい。京都旅行も兄と私の二人旅だったし、この何年も喧嘩などしていない。
というよりも、福岡県と大阪府の距離で年に数回会うだけで、役割分担として母親の面倒を見ることと親戚づきあいは私がやっているが、代わりに住宅ローンや家賃の心配もなく暮らしており、兄からはそれに対して妬みもなく、私も感謝の言葉をもらっているので、喧嘩するネタなど発生しないのだ。
恨みを晴らすための殺人
犯人の2人は自死を覚悟し、怨みを晴らすための殺人を犯した。祟るっていうぐらいだか、殺人だけではなくて、この先も災いを降り注ごうと心に決したのだろう。犯人が書いた文書の中に「殺してやる」「怨霊」「地獄へ送る」「呪う」「祟る」という言葉が使われていたそうだ。日本語の中でも忌み嫌われる言葉の数々。
歴史に詳しい人ならば、崇徳院の話はご存知だろう。保元の乱という争いごとはあったが、裏切られ、流され(と書くと流された先の香川県の方に申し訳ないが)、失意のうちに死んでいく。その怨みの深さから日本を呪う大魔王になると宣言した人だ。今ではサッカーの神様という扱いになっているが、もし日本に国家的不幸なできごとがあったら崇徳院の呪いなのかもしれない。
「呪う・祟る」なんて必要ない
普通に生活していたら「殺してやる」「怨霊」「地獄へ送る」「呪う」「祟る」などという言葉を使う必要などない。私はこの言葉たちに恐怖と同量の悲しみを感じる。自分の置かれた立場を、人への言葉として発することで、他人に影響力を行使しようとする。他人の心や態度や行動を制する気持ち、これを権力という欲なのだろう。欲と欲がぶつかり合い、反発力が増せば増すほど悲劇を生み出すのだ。
私の好きな言葉は「寄り添う」
この文章の一つ一つを分解しても美しい日本語で形作られている。
「私」は丁寧な言葉だし、「好き」も愛おしく思う気持ちのことだ。「寄り添う」は 人の心を理解しようとする態度だと思う。 こういう言葉を連ねていくような人生を歩まなければいけないと思った。
ツイッターなどを見ると、思い通りに動かないモノ(それはアプリだったり、いわゆる「物」だったりすけど)に対して「クソだ」と表現している人を見かける。結構なアルファブロガーが使っているのだが、ただ「自分の期待通りではない」でいいのではないだろうか。その人も親だし、自分の子どもがモノに対して「クソ」って言ってたら、心が痛むんじゃないかな。子どもたちに望まないことを親がやってはいけない。
私自身、殺されるかも
ので、いつか殺されるかもしれない。もし殺されたら、あの時の(清廉潔白ではない行動を撮った時の)因果応報なんだろうなと感じることだろう。自分の言動によって人がどのような心を動きをするのか予測不能なのだ。かと言って責任逃れもできないと思う。もし、そうなったとしても、怨んだり、祟ったり、殺したりしないろ心に決めておきたい。その反対の言葉「好き」や「寄り添う」という美しい日本語を柄用に心がけたい。「心がけ」も美しい日本語だね(^_-)-☆
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